憎しみの言葉はわたしを取り囲みネットで何か発言していると、ふとした拍子にどういうわけか袋叩きになってしまうことがある。「炎上」というやつだ。 どんな説明をしようが、どんな釈明をしようが、最初から喧嘩腰で、細かなあら探しをしよう、揚げ足を取ってやろうと待ち構えている相手には通じない。
理由もなく戦いを挑んで来ます。
愛しても敵意を返し
わたしが祈りを捧げても
その善意に対して悪意を返します。
愛しても、憎みます。
(詩編 109:3-5)
まあこういうことはネットの中に限らず、会社の中でも、ご近所付き合いでも、人間が集まって暮らしている中ではどこでもあり得ることなんだろう。ひょっとしたら家族の中で、そうしたギスギスした関係になってしまっている人もいるかもしれない。
■何をされても愛しなさい?
キリスト教は愛の宗教なのだと言う。イエスは福音書の中で次のように教えている。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)でも敵を愛したからといって、それで敵もまた自分を愛してくれるとは限らない。敵のために祈っても、それが何らかの益を生み出すわけではない。北風と太陽のように温かい心で接していれば、相手はいずれ自分を受け入れてくれてめでたしめでたし……というのは物語の中だけのことで、実際にはそんなことはまず起こらない。
詩編109はダビデの詩ということになっているが、実際の作者はわからない。でもまあ、ダビデがこういうことを考えて詩を作ってもおかしくはないよなぁ……と古代イスラエル人たちは考えた。羊飼いの少年から一大でイスラエル統一王国の王になったダビデは、それだけ敵も多かったからだ。
ダビデは敵意に対して愛や祈りを返そうとした。自分の子孫であるイエスの教えを、誰に教えられるまでもなく実践していたわけだ。だがそれでも敵意が止むことはない。敵は戦いの矛先を納めず、攻撃や追及の手を休めない。
■恨んだっていいじゃないか
ここでダビデは、「それでも愛し続ければなんとかなる」と考えただろうか? 「愛し続けなければならない」と考えただろうか? じつはそんなこと、ぜんぜん考えないのだ。
詩編109はここから、敵に対する呪いの言葉が綴られる。
彼に対して逆らう者を置き以下、省略。
彼の右には敵対者を立たせてください。
裁かれて、神に逆らう者とされますように。
祈っても、罪に定められますように。
彼の生涯は短くされ
地位は他人に取り上げられ
子らはみなしごとなり
妻はやもめとなるがよい。
子らは放浪して物乞いをするがよい。
廃墟となったその家を離れ
助けを求め歩くがよい。
要するにこれは「敵が呪われて、わたしは神の祝福を得られるように」という祈りの詩なのだが、たぶんこれが人間の嘘偽りのない感情なんだと思う。
聖書が「あなたの敵も愛しなさい」ばかりだったら、こんなものはもうとっくにゴミ箱行きだったと思う。聖書の中には「敵を愛しなさい」と書かれているけれど、同時に「愛しても意味ないじゃん」とか、「あんな奴らはろくでもない死に方をしやがれ!」という呪いの言葉も書かれている。
それが聖書の面白さなんだよな。
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