妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。聖書は何千年も前に書かれた書物で、その記事には何前年も前の社会制度や価値観がそのまま反映されている部分も多い。
食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
(詩編 128:3-4)
今回読んだ詩編128では「妻が家の奥にいる」ことが「祝福」だという記述が出てくるのだが、「食卓を囲む子ら」も含めて、これは「安定した家庭=神の祝福」という意味なのだろう。そして一家を支える男に安定した家庭を営めるだけの稼ぎがあることも、また「祝福」だとされているに違いない。
詩編が書かれた時代には、妻が家にいて家族のために家事をすることこそが好ましく、誰にとっても望ましいものだとされていたのだと思う。これを「祝福だ」と言うからには、実際には妻が家の奥にいない家庭、家計を支えるために妻も何かしらの仕事を持たざるを得ない家庭も少なくなかったのだと思う。
妻が家族のために家事に専念できるというのは、かなり恵まれた状態なのだ。であればこそ、それは「神の祝福」と言えるのだ。
しかしこうした表現だけに目を留めると、この部分は「妻が家事をしていない家庭は祝福されていない」かのようにも読めてしまう。「夫は仕事、妻は仕事」という固定化された性役割分担を、神の言葉である聖書が推奨しているように読む人がいるかもしれない。
でもこれは、そういう風に読むべき箇所ではないと思う。同じ詩編はこの前の箇所で次のように述べている。
いかに幸いなことか自らの手を労して、自らの食べ物を得る。額に汗して働き、自分と家族の生活を支える。それこそが「幸い」であり「恵み」であるという意味だ。であればここには、男も女も関係ない。
主を畏れ、主の道に歩む人よ。
あなたの手が労して得たものはすべて
あなたの食べ物となる。
あなたはいかに幸いなことか
いかに恵まれていることか。
(詩編 128:1-2)
旧約聖書のルツ記には、ナオミとルツという女ふたりの世帯が登場する。彼女たちには周囲の援助もあっただろうが、まず第一に自分たちで働いていたはずだ。職人の家庭などでは、妻も何らかの仕事を分担して行っていただろう。それもまた、神による恵みであり祝福なのだ。
「聖書は労働を否定している」とか「労働は神による罰である」と言う人がいるが、少なくとも詩編のこの箇所にそうした考えは見当たらない。
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