2015年2月28日土曜日

聖書の通読はいまだ継続中

■聖書通読いまだ終了せず

 聖書を最初から最後まで漏れなく読み切ってしまう通読が、いまだ完了していない。新約聖書は中学生か高校生の頃に一度読んでしまったのだが、問題は旧約聖書だ。

 聖書の通読には時間と根気が必要になる。僕には時間はあっても根気がない。それを補う方法のひとつとして、「通読表」を使って自分の達成度を目に見える形にしている。

 通読表というのは聖書の内容一覧表みたいなもの。これを塗りつぶしたりチェックをつけたりすれば、自分がどれだけ読んだか、あとどれだけ読まなければならないのかが一目でわかるのだ。

 市販の通読表もあるが、ネットを探すといろいろな形式の通読表が出回っている。これをダウンロードしてプリントしてもいい。例えば以下のようなサイトが参考になると思う。
僕はネットでダウンロードしたものと市販のものを併用している。52Week Bible Reading Planをベースに、旧約続編も少しずつ読むというスタイル。

■聖書を通読しておく利点

 僕が通読を達成したのは新約聖書だけなのだが、それでも通読のメリットはいろいろあると思う。要所だけを拾って読んでいく方式では漏れてしまう、聖書の中の小さなエピソードに出会えるのが通読の最大のメリットだ。

 子供向け(あるいは大人向け)の聖書物語には決して登場しない人物もいる。ひどく残虐なエピソードもあれば、エロチックなエピソードもある。現代人の感覚から見ると、どう解釈していいのか理解に苦しむような部分もある。でもそういう部分が結構面白かったりするわけだ。

 こういうものを読んでも、いちいち全部覚えておく必要はない。「そういや何かあんなことが書かれていたよなぁ」と思ったら、後からその部分を探すのは簡単だからだ。ネットを使えば聖書の全文検索サービスが無料で利用できるし、検索に引っかからないようなものもググれば見つけ出すことができたりする。

■現在の通読状況

 一時は熱心に読み進めていたのだが、ここ数年はまったく手つかずで放置している。現在の到達度は以下のような感じ……。(新約聖書も再読してます。)



 旧約聖書で「通読最大の難所」と言われている律法規定と預言書は既に乗り越えているし、残りはもうほとんどわずかじゃん! と、自分で今これを見ながら思っていたりする。でもその「わずか」がなかなか進まない。

 まあ少しずつでも先に進めば、いつかは終わることなんでしょうけどね。というわけで、たった今、詩編を少し読みました……。

 そして思ったけど、聖書はやっぱり面白いよなぁ。今後は聖書を読む中で、面白いと思った箇所や言い回しがあればブログで紹介して行こうと思いま〜す。

2015年2月27日金曜日

愛用しているのは既に絶版の聖書

一番利用頻度の高い聖書

 聖書は何十冊か持っているが、ごくわずかな例外を除いてガラス扉付きの本棚に押し込んだままだ。そんな中で、珍しく仕事机の引き出しに放り込んであり、椅子に座ったままでもすぐ取り出せる場所に置いてある聖書がこれだ。

 これは日本聖書協会の「新共同訳 カジュアル聖書 旧約続編つき(創造)」というもので、定価は1,900円(税抜)。中身は本文横組みで、通常の聖書1ページ分を2段に分けて1ページにレイアウトする「ハンディバイブル」と同じ形式。旧約聖書と新約聖書に加えて、旧約聖書続編と、読むためのガイドというの付いている。このガイドは用語や度量衡の説明など、ごく簡単なもので、いちいち断らなくても新共同訳聖書にはたぶん全部付いていると思う。

カジュアル聖書の利点

 この聖書を愛用している理由は簡単。まず薄いので場所を取らない。1ページに通常聖書の2ページ分を印刷しているから、厚みが半分になっている。机の引き出しに放り込んでおいても、ゴロゴロじゃまっけになることがないのだ。

 次に横書きなのでパソコンで横書きの作業をしているときに、目の移動が楽な気がする。ただしこれは「気がする」だけで特に根拠はない。

 この聖書はかなり文字サイズが小さいのだが、小さいなりにちゃんと読める組版になっている。既に老眼になっている僕などは、同じ文字サイズで縦組みだったらもう「ゲゲゲ!」という感じになりそうな、これは明るいところならちゃんと読めるな……。


 大事に使って何十年も持たせようとか、そういうものではない。表紙も紙にビニル加工をしただけの簡便なもので、要所のペーパーバックなどに近い雰囲気。それでいてページはしなやかに開けて、ページを開きっぱなしにしていてもひとりでに閉じてしまうようなことがない。

 そして一番の利点は、値段が安いこと。値段が安いから書き込みなども安心してできる。聖書をよく読む人は平気で書き込みをするんだけど、僕は「本は汚すな」と言われて育ったせいか、それができない性分。特に1冊5,000円ぐらいするような聖書だと、まず書き込みができない。でもカジュアル聖書だとぜんぜん遠慮しないのだ。(まあ他に同じ内容の聖書を何冊も持っているしね。)

残念ながら既に絶版

 このカジュアル版は2003年に発行されたのだが、その後は後が続かず、今はもう手に入れることができない聖書になってしまった。同じ組版の「ハンディバイブル」や「バイブル・プラス」は手に入るのだが、それだと値段的に小型聖書とあまり変わらなくなってしまうので「薄い」という意外にメリットはあまりないだろう。

 紙装の新約聖書は教会学校用などにたくさん出ているが、旧約聖書や続編まで含めて紙装にしたのはこのカジュアル聖書ぐらいしかなかったのではないだろうか。「聖書協会は聖書のラインナップを整理して減らすべきだ」というのが僕の基本的な考えではあるのだが、カジュアル版は残しておいてもよかった判のような気がするんだけどなぁ……。

 キリスト教系の学校なら聖書の授業用に、生徒にまとめて聖書を買わせたりしないんだろうか? そういうときに安い聖書のニーズはあると思うんだけど。学校じゃ新約聖書しか使わないですか? でもカジュアル聖書なら旧約聖書を合わせても、ビニル装の新約聖書と同じぐらいの値段だと思うんだけどなぁ。

聖書は読むものではなく使うもの

 ただしこのカジュアル聖書は、「聖書を1冊だけ買うとしたら何がいいですか?」というニーズには向かないのです。ビニル装やハードカバーの聖書なら大事に使えば一生ものだけど(僕が持っている聖書の中にはそれよりもっと古いものが何冊かあるけどね)、紙装のカジュアル聖書にその重みはないからな……。

 でも聖書は「読み物」ではなく「使うもの」なのです。どんどん開いて、どんどん書き込みをして、読んで、使って、読み倒して、使いまくって、ぼろっぼろにしてしまうのが、本当なら聖書にとっての勲章みたいなもの。(僕はそこまでやったことないけど。)だから聖書を本格的に読もうとする人(使おうとする人)は、もったいぶって立派な装丁の聖書を買わずに、紙装の聖書を徹底的に酷使した方がいいのです。

 革装の聖書を本棚に仕舞い込んでお飾りにするよりは、紙装の聖書を1冊だめになるまで活用した方がいいと思うんだよね。紙装の聖書を徹底的にそこまで酷使できれば、その後に革装の聖書を買い直してもきっと過去の活用が生きてくるような気がするけど。

結構頑丈なカジュアル聖書

 日本の印刷製本技術は世界一なので、カジュアル聖書もかれこれ10年以上手もとにあるけどまるでびくともしていない。無線綴じだけど背割れしてページの開きがバカになってしまったり、一部のページが抜けてしまうといったことは皆無。

 ちなみにこれを印刷していたのは、各種の辞書で有名な三省堂印刷。辞書もまた「使う本」として酷使される運命にあるから、聖書とは似たところがあるな。

 そんなわけで今も僕は愛用しているカジュアル聖書なので、日本聖書協会にはできればこの復活をご検討いただきたい。まあ復活したからといって僕がまた買うことはないわけですが、「聖書を買いたいんだけど」という人にお薦めすることはできる。

 じっくり聖書の内容を熟読吟味したい人は「引照つき」がいいけど、聖書に何が書かれているかを知りたい、小説のようにひたすらどんどん読みたいという人にはカジュアル聖書という選択もあった方がいいんだよ。

2015年2月26日木曜日

引照つき聖書が定番商品にならない日本

聖書を1冊だけ買うならどれがいい?

 「聖書がほしいんですがどの聖書を買えばいいですか?」と言う人がいるのだが、それに対する僕の答えは決まっている。

 「もし教会に通いたいと思っているのなら、まず手ぶらで教会に行って聖書を借りればいい。その教会が気に入ったら、そこで使っているのと同じ聖書を買えばいい」

 「しかし教会に通ったり信仰を持つつもりがなく、純粋に興味や好奇心から聖書を読んでみたいと思うのであれば、日本聖書協会から出ている新共同訳聖書、その中でも旧約聖書続編つき、引照つきを買うべきです。サイズは中型がいいでしょう。革装である必要はありません」

新共同訳の旧約続編つき・引照つきが究極の1冊

 新共同訳聖書に対しては「あれは訳文がだな〜」とあれこれ文句を言う人も多い。それは十分に承知した上でこれを薦めるのは、これ1冊あれば聖書の全部がまかなえるからだ。

 プロテスタントとカトリックでは、聖書に含まれている文書数が違う。簡単に言ってしまうなら、カトリックの文書数が多いのだ。聖公会はもっと多い。そのためプロテスタント教会で使っている聖書を持っていても、西洋キリスト教絵画や映画などを観たとき「この話は聖書に出ているはずなのに、俺の持っている聖書には載ってないぞ?」ということになりがちなのだ。

 これを避けるためには「全部入り」の聖書を1冊持っているのがいい。プロテスタントの聖書に含まれず、カトリックや聖公会の聖書にのみ含まれている部分をプロテスタント側は「外典」と呼ぶ。だがこれらはカトリックや聖公会では正典の外にある「外典」ではなく正典の一部だ。そのため日本聖書協会はこれらについて、「旧約聖書続編」という名前を付けて売っている。

 日本聖書協会は大まかに3種類の日本語訳聖書を売っている。大正時代から戦後まで使われていた文語訳、戦後使われるようになった口語訳、その後カトリックとの共同で翻訳した新共同訳だ。文語訳や口語訳には「続編」がない。そのため続編が読みたければ新共同訳しか選べない。

 日本聖書教会以外で比較的ポピュラーな聖書には、福音派系のプロテスタント教会が使っている「新改訳」がある。これはプロテスタント系の聖書なので続編はない。したがって続編つきの聖書を読みたいなら、ほぼ自動的に「新共同訳聖書 旧約聖書続編つき」になるわけだ。

引照つきのメリット

 日本聖書協会からは新共同訳だけで何十種類もの聖書を売っていて、その中には続編つきのものも数多くある。その中からなぜ「引照つき」を薦めるかと言えば、聖書は本文を相互参照して読むのが普通だと思っているからだ。そのためには引照がついていると便利だ。

 聖書のある箇所を読んでいて「これは以前にどこかで同じような話を読んだぞ」と思ったら、引照から該当箇所を探す。するとはたして似たようなことが書いてある。これを相互に比較しながら、聖書本文の理解は深まっていくわけだ。

引照つき聖書が売り切れのまま?

 英語の聖書だと引照つきが当たり前に売られているのだが、日本の聖書は引照つきがあまりポピュラーではない。これについて僕は「ひどい」と常々思っている。僕が薦める「新共同訳 旧約聖書続編つき 引照つき」も日本聖書協会では現在売り切れ状態だ。おそらく増刷の予定もないのだろう。

 これは以前も長らく品切れ状態が続き、数年前にようやく新しいものが出たのに、また品切れになればそれっきり。おそらく今後も数年はこのままだろうが、日本聖書協会の聖書は数年後に「標準訳」を出すと言っているから、その後は新共同訳のラインナップが整理されて引照つきは売られなくなってしまうかもしれない。

 日本聖書協会は「イラストを入れました」とか「サムインデックス付けました」とか「表紙のデザインに工夫しました」などとさまざまな判型や装丁の聖書を出すのに熱心なのだが、それよりもベーシックな聖書を品切れにすることなくきちんと出し続けてほしいと思う。

聖書協会は発売点数を整理すべき

 だいたい引照つき聖書の値段を割高にするのがケシカランのだ。昔は聖書を印刷するのに1文字ずつ活字を拾っていたから、引照を付ければその手間の分だけ値段が高くなるのは理解できた。でも聖書だって今はオフセット印刷だ。デザインやレイアウトだって電子組版だ。こんなもの一度データを作ってしまえば、あとの印刷費用は引照があろうがなかろうが紙代とインク代だけで変わらないではないか。

 日本は英語圏ほど大量に聖書が売れるわけではない。薄くて丈夫な紙に印刷して分厚く束ねる聖書は、普通の書籍よりもずっと手間もかかる。しかしそれなら余計に、あれこれデザイン違いの聖書を出して「多品種少量販売」みたいなことをして値段を高くするのはよしてほしい。聖書のラインナップは整理して、それぞれの部数を多くした方が安くできるのではないだろうか。

 新共同訳聖書に関して言えば、続編つきと続編なしの2系統。サイズは小型・中型・大型の3種類。サイズによって内容は、小型はソフトカバーで引照なし、中型はソフトカバーで引照付きのみ、大型はハードカバーで引照付きのみとしてしまえばいい。販売される聖書はこれで6種類しかない。

 この6種類については大量に印刷するかわり、値段をずっと下げればいい。英語聖書並みにとは言わないまでも、現在より3割ぐらいは値段を下げて出すことができるのではないだろうか。

 逆にこの6種類からはみ出すものについては、「趣味的なもの」と割り切って値段をずっと上げてしまえばいい。とにかく引照付き聖書の品切れ状態は情けない話だ。

フランシスコ会訳もお薦め

 というわけで現在は新共同訳聖書の続編・引照付きが買えないので、「聖書がほしいんですがどの聖書を買えばいいですか?」という質問に対しては別の答えを考えなければならない。とりあえず「全部入り」であれば、新共同訳の引照なしのものを買うのが一番安上がり。しかし読み物として解説が添えてある聖書なら、サンパウロから出ているフランシスコ会訳がお薦めかもしれない。

 これはカトリック系の訳なので、少なくともカトリックが正典としている範囲はすべて網羅されている。ただし聖公会での使用は当然考慮されていないので、日本聖書協会の旧約聖書続編つきよりは文書数が少ない。また文書の配列がカトリック聖書の標準的な配列になっているので、プロテスタントの聖書に慣れている人は戸惑うかもしれない。

 しかしこれは「教会に行く気はない」人に限定の選択だ。フランシスコ会訳は現時点でどの教会でも使われていない聖書だから、教会に通うとなれば別に新しい聖書を買わなければならない。

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2015年2月25日水曜日

わたしの聖書の物語

子供の頃に買った最初の聖書

 僕が持っている聖書の話をしようと思う。

 聖書コレクター的に古い聖書をもらったり購入したのは別として、自分用の聖書として手にした聖書で一番古いものは日本聖書協会の口語訳聖書だ。旧新約合本の中形聖書。ハードカバー。

 これは礼拝出席用に、親に購入してもらった。これ以前に新約聖書は持っていたのだが、大人と同じ旧新約聖書が1冊になった分厚い聖書が、自分のものになったのはうれしかった。

 購入時のカバーがなくなっているので、これが当時いくらしたのかはわからない。現在はフェルト製のカバーがかかっているのだが、これは当時通っていた教会の牧師の娘さんが作ってくれたもの。

教会での思い出

 滋賀県彦根市の教会に通っていたんですが、牧師さんには三人の娘さんがいて、僕と弟はよく遊んでもらっていました。教会併設の保育園があって教会学校の分級はそこでやってたんですが、その後も居残って、保育園の遊具である巨大積み木で家を作ったりしてた。その間、大人たちは礼拝をしているから子供だけで楽しかったな。

 あと保育園の遊具で遊んだり、木登りをしたり。自宅(牧師館)に招かれて、レコードを聴いたりした。「知り合いの牧師さんの息子が歌手になってレコードを出している」と言われて聴かされたのが、「くそくらえ節」や「がいこつの唄」「チューリップのアップリケ」などだったのだが、これってフォークの神様・岡林信康なんだけど当時はそんなこと知るよしもない。彼は近江八幡の牧師の息子なのであった。子供心に大ウケしたのは「くそくらえ節」ですけどね。

年季の入ったおんぼろ聖書だが……

 で、聖書の話に戻るのだが、このフェルトカバーを作ってくれたのが三姉妹のうちの誰だったかはもう覚えていない。表紙のキャラクターは何だろう。イヌかな。このへんは1970年代の少女マンガ風のセンスだな。これはフエルトを切り抜いて、アイロンで圧着するようなものだと思う。一度はがれてきたので、木工ボンドを薄く延ばして貼り直したことがある。


 裏表紙には僕のイニシャルが刺繍してある。これがあるので、僕はいまだにこのカバーを捨てられない。人にプレゼントをするとき、こういう手作業は大事だよなぁ……。


 聖書の中身はだいぶヨレヨレになってますが、大きな破れなどもなく、まあきれいなもんです。ほとんど読んでいないというのがありありとわかるけどね……。聖書を読む人は、読んで読んで読み潰しちゃうからな。僕の聖書は書棚のお飾りでした。

 

 裏表紙の見返しには「1975.11.8 服部弘一郎」という名前が書いてある。これはたぶん父親の字だと思う。今年が2015年だから、これは40年前に購入した聖書だということがわかる。


 本文で1箇所、破れ目をセロテープで補修したあとがある。テープの接着剤が変質して用紙に染みこみ、これが変色してひどいありさま。ちなみに接着剤は接着力を失ってテープ本体から剥落し、テープ本体は剥がれてしまっている。でも補修のあとだけはこうして痛々しく残る。本をセロテープで修理してはいけませんなぁ……。

 僕は新共同訳聖書は何冊も持っているのだが、口語訳聖書で旧新約の合本を持っているのは、じつはこの1冊きりなのだ。今どき口語訳聖書を使う教会もあまりないし、僕は新共同訳のほうが馴染みやすいので、読んだり引用したりするのも新共同訳がメインになる。口語訳はネットにテキストを検索できるので、調べ物などもネット利用が多い。つまりこの口語訳聖書は、これからも、今後も、ずっと利用されることなく書棚に突っ込みっぱなしになる運命なのだ。


 カバーのフェルトはグレーだったものが、小口部分などは日に焼けたように茶色くなってしまっている。保管状態の悪さがうかがい知れるなぁ。まあ個人的にいろいろな思い出がたどるよすがになる聖書なので、これはこれで持っているだけで価値があると思ってますけどね。

2015年2月20日金曜日

出エジプト記について

 「生かじり聖書物語」の出エジプト記は、「再度の契約と幕屋建設」で終わり。これは出エジプト記がここで終わっているから区切りにしただけのことで、聖書の中ではイスラエルの民の旅がこの後も長く続く。イスラエルの民が約束の地であるカナンに入るのは、エジプトを脱出してから40年後のこと。モーセはその直前に亡くなり、指導者の地位はヨシュアに引き継がれる。

2015年2月19日木曜日

再度の契約と幕屋建設(出エジプト記 11)

 神はモーセに再び戒めの石版を与える。モーセは神と語り合うための幕屋を建設し、人々に神の言葉を伝えた。だがイスラエルの民の旅はさらに続く。

2015年2月18日水曜日

神の契約と金の子牛(出エジプト記 10)

 神は自分が与えた律法を人々が守る見返りとして、かつてアブラハムと契約した土地をその子孫であるイスラエルの民に与えることを約束する。だがモーセが山に登っている間に、人々は金の子牛像を作ってそれを拝みはじめた。

2015年2月17日火曜日

十戒(出エジプト記 9)

 モーセの妻子がイスラエルの民に合流する。モーセは人々からの相談事に追われていたが、妻の父の助言から民全体の再編を行うことになった。必要なのは組織化と、全体を統率するための戒律だ。モーセはシナイの山で神から十戒を授けられる。

2015年2月16日月曜日

マナの奇跡(出エジプト記 8)

 エジプトを逃れたイスラエル人は飢えと渇きに苦しめられ、モーセに不満をぶつけた。神は天から「マナ」と呼ばれるパンを降らせて人々の飢えを満たし、泉を湧き出させて渇きを癒やした。

2015年2月15日日曜日

割れる海(出エジプト記 7)

 モーセに率いられてイスラエルの民がエジプトを出て行くと、王は彼らを去らせたことを後悔してすぐに追っ手の軍勢を出した。モーセたちの目の前には海が広がっていたが、モーセが杖を掲げて手を差し出すと、海は真っ二つに割れてそこに道が出来た。

2015年2月14日土曜日

初子の贖い(出エジプト記 6)

 神はイスラエルの民に、すべての初子を自分に捧げるように命じる。だが人間の子供については、身代わりの動物を捧げればよい。

2015年2月13日金曜日

主の過ぎ越し(出エジプト記 5)

 神は最後の災いとして、エジプト中のすべての初子を殺した。だが戸口の柱と鴨居に小羊の血を塗ったイスラエルの民の家は、この災いを過ぎ越すことが出来た。王はこの災いの後、ついにイスラエルの民がエジプトから出て行くことを許可する。

2015年2月12日木曜日

9つの災い(出エジプト記 4)

 モーセはエジプト王の前で奇跡を起こすが、王はイスラエルの民を去らせてはくれない。次々起こる災いのたび一度はモーセの要求を聞き入れる王も、災いが去ればすぐ前言を翻すのだった。

2015年2月11日水曜日

ファラオの前へ(出エジプト記 3)

 モーセは兄アロンと共にエジプト王に謁見すると、砂漠で神に生け贄を捧げる儀式を行うため、ヘブライ人たちがエジプトを出ることを許してくれと申し出る。だがファラオはこれに激怒し、ヘブライ人奴隷たちの仕事をさらに増やすよう命じるのだった。

2015年2月10日火曜日

モーセの召命(出エジプト記 2)

 エジプトからミディアンに逃れたモーセは、結婚して羊の世話をして暮らすようになった。彼は羊を追って「神の山」に入り込み、そこで神の声を聞く。神はモーセに「エジプトに戻ってイスラエルの民を導きカナンまで連れて行け」と命じた。

2015年2月9日月曜日

モーセの誕生(出エジプト記 1)

 エジプトの奴隷だったヘブライ人が増えすぎため、エジプト王はヘブライ人に男の子が生まれたらナイル川に投げ込んで殺すよう命じた。だがあるヘブライ人の夫婦は生まれたばかりの我が子を殺すに忍びなく、パピルスで編んだ籠に入れてナイル川に流す。これを見つけたエジプトの王女は、子供にモーセという名前を付けて養子にしたのだが……。