2015年2月14日土曜日

初子の贖い(出エジプト記 6)

 神はイスラエルの民に、すべての初子を自分に捧げるように命じる。だが人間の子供については、身代わりの動物を捧げればよい。

 神はモーセに言った。「すべての初子(ういご)を聖別してわたしに捧げよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人の子であれ家畜の子であれわたしのものだからだ」。

 エジプト脱出を記憶するためユダヤ人は今も《過越の祭》と《除酵祭》を守っている。この他に古代イスラエルで守られていたものに「初子(ういご)の奉献(ほうけん)」がある。これは神殿崩壊後には消滅してしまった古い習慣だが、キリスト教が成立した1世紀頃にはまだユダヤ人に守られていて、キリスト教の発生にも強い影響を与えた。

 初子というのは、母親から最初に産まれた子のこと。人間の子でも家畜の子でも、そのうち男の子や雄については、聖別して神に献げなければならない。初子を殺してその血と肉を神殿の祭壇で焼き尽くす。すると献げ物はすべて煙となり、神の住む天の王国に届くと古代人は考えた。これはエジプト脱出の前に、神がエジプト中の初子をすべて殺したことを記憶するためだとされている。

 飼っている家畜に最初の子供が生まれることも、夫婦の間に最初の子供が生まれることも、人間にとってとても喜ばしいことだ。だが神はそれを人間から奪い取って自分のものにしてしまう。今では考えられないことだが、古代社会には人間の子供を人身御供に捧げる習慣があった。自分たちにとってもっとも大切なものを神に献げることと引き替えに、それを上回る大きな恵みを神が与えてくれると期待してのことだろう。人間が痛みを味わえば、神はその痛みを埋め合わせした上に、さらにその何倍もの恵みを与えてくれる。

 天候不順や病気や外敵に常に脅かされていた古代人にとって、神の加護こそもっとも確実な安全保障だった。そのためには、生まれたばかりの赤ん坊を殺すことさえいとわなかった。古代は多産社会であり、ひとりの母親が何人もの子供を産み落とす。そのうち最初のひとりを殺して神に献げることは、子供を捧げる家族にとっては悲劇だろう。だがそれによって部族全体が守られる。初子を犠牲に捧げることで、その後に続く全体を守ることができるのだ。

 モーセを通して語りかけた神も、イスラエルの民にすべての初子を自分に捧げるようにと命じる。だがこの神が同時代の他の神々と異なっていたのは、人間は捧げられた我が子の命を、身代わりの動物の命で代用することができると定めたことだ。夫婦の間に初めて生まれた子供が男の子だった場合、その子供の命は確かに神に献げられるべきものだ。だがその命を実際に奪い取ることは許されない。神はその子供の身代わり、小羊を捧げろと命じているからだ。

 人間の身代わりに小羊を捧げるという話は、出エジプト記以前に、創世記のアブラハム物語にも出てくる。アブラハムは息子イサクを神に献げるよう命じられるが、まさに息子にナイフを振りかざしたその時に、神がそれを制止してイサクの身代わりの小羊を与えたというエピソードがある。小羊の血によって初子の犠牲が避けられるというのは、エジプト脱出前の過越とも共通する。神がエジプト中の初子を殺して回った時、戸口に塗られた小羊の血によってイスラエル人の初子は守られた。小羊は自分の血によって、人々を守るのだ。

 人間の命の身代わりとして動物を捧げることを、贖(あがな)いの犠牲を捧げる言う。「あがない」とは何らかの代価を支払って買い取ったり、あるものと引き替えに別のものを手に入れることだ。古代イスラエルでは人間の身代わりとして小羊が捧げられた。人間の命を別の者の命で代用することができるという考えは、この後も聖書の中に何度も登場する。罪の身代わりとして山羊が生贄として捧げられることもあった。これがスケープゴート(身代わりの山羊)の語源だ。こうした考えが根底にあれば、後に「イエス・キリストが身代わりの犠牲となることで全人類の罪を贖った」という贖罪(しょくざい)の教義が生み出されたのも不思議ではない。

 なお出エジプト記の13章で、神が人間と同じように贖いを認めた動物がある。それはロバだ。ロバの初子についても、小羊の命で代用できるとされている。人間の命の価値は、この点でロバと同格らしい……。

(出エジプト記13章)

0 件のコメント:

コメントを投稿